2003.10.5(日)10年かかったか
久々に両親に会って、楽だった。
インナーチャイルド、親子の問題に気がついたのは、おそらく1994年か95年ごろ。ある友だちについて「この人、虐待されてきたのでは?」と思ったのがキッカケだった。
そういう本を探して、アリス・ミラーに出会い、「実は自分が?」と感じ始めたのだった。まさか、そんな……!! じゃあ、どうしたらいいの!
長いこと答えを探し、瞑想や前世療法、インナーチャイルド・ヒーリングに出会い、さまざまな虐待関係の本、アダルト・チャイルドの本を読み、親を嫌い、憎み、距離を置き、会うときは「また、傷つけられる!」と怯え、怒りを抑えるのに必死で不自然な態度しかとれず、いろんな人に愚痴を聴いてもらい、自分でもいろいろ取り組み、時にはうんざりして、「まだダメなの!?」と絶望し、なんどもワンワン涙を流し……。
そんな中で、自分がどんな人間なのか、いろいろと知るようになった。自分の恐怖や不安もしぶしぶながら認めた。落ち込んだり、無気力になったり……でもそれを「いいんだよ」と受け入れられるようになった。
悩みや思いを正直に話す相手もできた。母への悪口を聴いてくれたマルコさん、耳を傾け、私の母の人となりを妹として語ってくれた叔母たち。批判やお説教をせず、耳を傾けてくれたから、ずっとずっと楽になった。
以前なら、誰かに腹を立てても、怒りをため込んでため込んで、内部で爆発、一方的に距離をつくり、その人の前から消えた。でも、「私はあなたに腹を立てた」と友だちに伝える、という冒険もしてみた。ある人はいなくなり、ある人はとどまり、前よりも深いつながりができたと思う。彼女も「実は○○と感じていた」と率直にうち明けてくれ、そうだったのか、と理解できた。
ほぼ10年かぁ〜。
すべて解決、とは思ってない。死ぬまで、いろんな課題はあるし、成長は続いていく。でも、一応の目鼻はついた、かな。
一番よかったのは、気が楽になったことだな。「自由だ〜〜」って、昔よりずっとずっと感じている。
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先日、初めてセラピーでキャンセルが出た。時間になっても現れないし、電話も通じないし。来るのか。来ないのか。イライラした。
でもイライラのレベルは以前(渡米前にセラピーやっていたとき)よりも低い。あんまり腹を立てなくなったのかな? それとも怒ってないフリをしてるのかな? むむむ、わからない。でも、じゃあいいや、本を読んじゃおう。お腹減ったから、ゴハン食べちゃおう。
やっぱり、怒ってないのかな? 私。
でも、ダンナが帰ってきて、開口一番。「聞いてよ〜、今日さーー、ひとり来なかったの!! 連絡もないし、もおっ!!」。
なんだ。やっぱり怒ってたんだ(^◇^;)。
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セッションの予約カレンダーを「申し込み」のページに公開している。予約が入ってないときは、それを後悔したりする。カレンダーを見れば、いつが空いてるか、一目瞭然。だから出してるのに、「空きが多いと恥ずかしい」と思ってしまう。
でも、なんだって恥ずかしいんだろう。自分に聞いてみる。
「だって、私には人を惹きつけるチカラがないってことじゃん」と答えが返ってくる。どれだけ申し込みがあるかで、自分の価値や魅力を測っているのだった。なるほどね。いいよ、恥ずかしがっていても……はははσ(^^)。
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以前、メールの返事がないと「相手が怒っている」と怯えていた。いまは「その人の都合なんだ」とわかってきた。メールしたくても、書く気力がないときがある。もちろんミテを嫌いだから、って理由もあるだろう。
でも、誰かがミテを嫌いだからって、それもその人の都合。それでミテは傷ついたりするけれど、それでミテの価値が増減するってもんでもない。
……と、なんとなくわかってきてるのに、「セッションの申込数で自分の価値が増減する」と思っている。ココロってやつは、なんともおもしろいっす。
2003.10.10(金)絆の再生
なんだかな。
人に会うことが多くなった。もちろんセラピーも含めてだけど、毎日誰かしらと会っている。つい最近まで引きこもっていて、手帳もまっしろだったのが、ウソみたい。変われば変わるもんだなぁ。
おもしろい偶然の一致も、ばしばし起こっている。いやいや、もう「偶然」なんて言うのはよそう。「必然」。起こることは全部、必然。そのうえ、最善。すべての意味が即座にわかるわけじゃない。そんな日は来ないだろう。わかる必要もないのかもしれない。
でも「すべて必然で最善」ってことが、するすると腑に落ちる、っていうか、収まる、っていうか。そんな気分。
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人と話していて、背筋にビリッとくることが増えた。「うわ、この話は重要だ!」とか、「これはホントだ!」っていう感じ。
いままでも、ショックを受けたり、やばいと思ったときに、クビの後ろがガーンと痛くなることはあったけど、背筋にビリリは新しい感覚。気を付けていると、百会(ひゃくえ:頭頂)にビリビリくることもあるし、風呂の栓を抜いたみたいに体中からチカラが抜けるときもある。
おそらく体は、いままでもそういう反応をしていたんだろう。気的過敏体質だしなーー。でも、ミテはそれに気がつかなかった。意識が向かなかった。
あらためて、体との絆が結び直された……からだとつながることができ始めた、ようだ。新しい局面にいる。そんな気がする。
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でも、なぜ失われていた絆を取り戻し始めたのだろう?? 青い衣をまとって、金色の野に降り立ったわけでもないし。なにかデキゴトがあった?? なにかした?? よくわからない。
体にもっと意識を向けよう、大切にしよう、とジタバタしていたときは、これといった変化はなく、すっかり忘れた、思いがけないときになにかが動き出した。執着を離れたから?
わかるような気もしつつ、まだハッキリ、スッキリとはしてないな。なにかを「受け入れた」から? それとも、単に「そういう時期」が来たから?
まぁ、ゆっくりと行方を見守っていましょう。なんだか楽しみだよ。
2003.10.16(木)セドナ体験
セドナを訪れたのは、去年の6月だった。うち(コロラド州フォート・コリンズ)から何日もかけてドライブしていき、しかもクソ暑く、山火事を警戒してどこもかしこも立入禁止。もう疲れてヘトヘト。
砂漠を旅してたどり着いたせいか、「うーん、ここが聖地??」みたいな……。観光地でもあるので、人がわんさかいるし、たくさんのお店が軒を連ねてるし……。
モニュメント・ヴァレーやクレストン(コロラド州)の方が、好き……と思っていた。
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ホームページの表紙に使う写真が、そろそろセドナにさしかかる。写真を選びながら不思議だった。「いっがーーい! セドナの写真、すごくいい感じ……」。
昨年10月に帰国して以来、深い深い泥沼の、絶望的なドツボにはまっていた。イライラし、不機嫌で、体調も最悪。無気力がすべてをむしばみ、家から出ない日も続いたし、人に会うなんてとてもとても。寄ってくる人、だれかれかまわず腹が立つ……みたいな、寄らば切るぞ、的な。
たしかに「逆カルチャーショック」の果たした役割が大きいのだけど、帰国前からそんな感じだった、と思い当たった。
きっかけは……セドナだったりするんだろうなぁ。
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ベル・ロックで瞑想中、「もっと人を好きになりなさい」と言われ、「ええーーっ、ミテってヒトギライ?」と気がついた。それから、だろうなあ。
自分の中のヒトギライの部分を、これでもか、これでもか、と見せられた。いやいや、見せていただいた(^◇^;)。「ほれほれ、まだまだあるぞ!」「ひぇーー、お代官さま、お許しくだせぇ……」。
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言ってみれば、セドナの強いエネルギーが、徹底的なドブ掃除を促してくれたんだ。きれいに言やぁ「浄化」だけど、実感はドブ掃除だな。
普段は底の方に沈殿して、「いないフリ」をしてるヘドロが、セドナのエネルギーで巻き上げられた。水は濁るし、臭いし、収拾つかないし。濁っていて、なにがなにやらわからない。押し流されてアップアップ。
でも、時間が経ってみたら、ドブも水も、かなりキレイに……。
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セドナで、車椅子がいらなくなったり、病気が治ったり。エネルギーが「見え」たり、過去生を思い出して感激したり……という話を聞いていた。
そういうキセキ、実は期待してたんだけどさ。
だから、「いいよね、みんな、スバラシイ体験をしてさ。ミテなんかお呼びじゃないんだ」「うーん、セドナはどうもねぇ……」なんてひがんでた。
でも、ミテにとってのセドナ体験は、この「ドブ掃除」だったわけだ。16ヶ月もたって、やっとわかったよ。あはは! たしかに凄いパワースポットだね。
いまでは、とても感謝してる。やっとこさ、そう思えるようになった。辛い日々を経て、わかったこともたくさんある。ドツボ、ありがとう。
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おなじように最近までドツボっていた友だちと話していたら、なんとその人も去年の6月にセドナに行ったそうだ。
先月セドナに行ったべつの友だち。メールの返事が来ないんだけど……ドブ掃除進行中……かしらね??
2003.10.21(火)なみだ
今日は泣く日だったみたい。映画「プリティ・リーグ」を見て、最後のころは涙なみだ。どうしてこんなに泣けるんだろう? 悲しいのか、嬉しいのかわからない。でも、止まらない。いいや。こういう時は、ゴチャゴチャ考えんと泣く!
泣くと疲れるから、寝る。久しぶりに昼寝したかな。いや、週末に昼寝したんだっけ……。
で、「プリティ・リーグ」を見ていたら、今日夜にやる映画の宣伝があった。「モリー先生との火曜日」。面白そうだから、9時になってチャンネルをあわせた。大学でお世話になった先生が、難病で死んでいく。たまたまそのことを知った、忙しいスポーツライターが先生に会いに行く。
愛、死、生、家族……。きみはそれが怖いんだね、と言われる彼。「なんのことだ?」といぶかる彼。はじめて再会したときは、先生の病気のことも話したくないし、死なんてとんでもないし、なにか明るく話し続けないと恐ろしくてしょうがない、とでもばかり、時間と空間を言葉で埋める……。
でも先生の病状はすすんでいくし、彼はようやっと自分に向き合う。
ああもう、これも涙なしには見られない。自分がなんで泣いてるかわかる場面と、やっぱりわかんない場面がある。そして、どっちでもいいから泣く。なぜか泣きたいのだから、泣く。
先生の前で、彼は最後には涙を流すことができた。それまでは、絶対に泣かない、って人だったのに。よかった。泣けるってすごいこと……。
大学生のころ、宿題で読んだニューズウィークに涙の効用が書いてあった。たしか体内にたまった悪いものを洗い流す作用もあるのだとか。泣きたくても泣けないときは、タマネギを刻んで泣く、って人も登場していた。
体の健康のために、心の健康のために、思い切り泣いて、笑って、怒る。大切なことだなーー。
2003.10.24(金)人生って、うまくできてる
友だちと午前10時に待ち合わせ。遅いなぁ〜。でも、時間にルーズな人かも知れないし……さすがに30分ぐらい(たぶん。時計持ってない)たって、家に電話してみる(携帯持ってない)。ダンナに「連絡なかった?」「あったあった!」。べつの友だちを巻き込んで大騒動。約束よりも1時間おくれて無事、会うことができた。
スピリチュアル・コンヴェンションに行ったのである。わお、人混み……東京は混んでるなぁ。連れがリーディングなどしてもらい、ミテのお友だちとばったり会ったりして、昼過ぎには会場を出た。ミテは人混みに気を取られてちょっと疲れ、内容には注意を払ってない(^◇^;)。せっかく入場料を払ったのにねぇ。
ダンナとどっかで落ち合おうと思っていたら、家で待ってると言う。それもいいか。電車で本を読んでいて、ふと目を上げると昼間だってのに、外は真っ暗。なんだかたたきつけるような雨。
でも駅に着いたときは小やみになっていた。よかった。食事を作る気はさらさらなく、お弁当を調達。すると帰るまでに、滝のような雨が! 風も強い。カサが飛ばされるぅ! 前が見えない!! 寒い! 無事に帰り着くだろうか、と思うほど。
濡れ鼠になって、玄関のチャイムを押す。応答がない。もぉっ、カギを出さなくちゃいけないのっ!? 鍵を開けたのに、ドアチェーンがかかってる。入れないっ!
ピンポン、ピンポン、とチャイムを押し続ける。応答がない! 2階で寝ているのか?? 2階には聞こえないんだよね……。
鞄を物置に放り込み、篠突く雨の中を5分ほど歩いてコンビニから電話をかける(携帯持ってないし)。「ちょっとっ! 入れないんだけどっ!」。怒り心頭、怒鳴りつける。寒いし、お腹空いてるし、もおっ。
ダンナに怒鳴ったのは、初めてかな。
やっと家に入って、ゴハンを食べて、ぐったり。ああもう、なんて日なんだ……。
夜は疲れ果てて、「ゴハン作らない」と宣言。出前を取ろうとしたら、お店が電話に出ない。ラーメン屋さんに行ったら、しまってた。あああ、さんざん……。
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で、その夜。「神との対話」を読んでいた(第3巻、文庫版119ページ)。
視点が思考を創り、思考がすべてを創るという真実さえ覚えていれば、それに、身体を離れる前にこの真実を思い出せば、あなたの人生はがらりと変わる。
思考をコントロールするには、視点を変えればいい。
そのとおり。視点を変えれば、考えが変わる。この方法を覚えれば、思考をコントロールできる。経験を創造するには、思考のコントロールこそすべてだ。これをつねに祈ることだと言うひともいる。
さっきもそうおっしゃいましたね。でも、祈りをそんなふうにかんがえたことがなかったな。
考えたらどうなるか、想像してみたらどうだ? 思考をコントロールし、方向づけすることが、最高のかたちの祈りだと思えば、良いこと、正しいことだけを考えるだろう。たとえ深い闇に包まれていても、否定的なことや闇にこだわらなくなる。ものごとが荒涼として見えるときでも、いや、そのときこそ、完璧さだけを見るようになる。
むむむ! 「今日はさんざんだ」と思ってもいい。落ち込んで、人生を呪ってもいい。それでも構わない。でも、それを面白がってもいい。「いやぁ〜、『うまくいかない』5連発だよ! こんな日もあるのかー。おっかしいーー!」。それにお弁当、美味しかったし。怒鳴ったらスッキリしたし。
しかも、その日の終わりに、こんな文章と出会ったんだもの。まるで「実習 その5」って感じ?
世の中って、人生って、うまくできてるなぁ。さすが、神さま! あ、いや、「神さまと私」の創りあげた一日!
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……って日があって。その日の前も、後も、毎日なにかしら予定が入っていた。もちろんセッションも、ね。
それもパズルのように、上手に、空いた日に予定が降ってくる。かちあってどっちかを諦めなくちゃならない、ってことがない。すごいなー、なんて面白いんだろう、と思っていた。
でもねー、あんまり連日だったので、ちょっと息切れ。「疲れてる……かなぁ?」とは思っていたんだけど、ある日「やっぱ、かなり疲れてる」と自覚。その日も二つの予定をこなし、会った友だちに「疲れてるんじゃない??」って言われちゃった。「そうなのーー(;_;)」とやっと認める私。
でも次の日は二つのセッション。「うむむ、ダイジョーブかしら?」と思ったら、なんとまぁ。二つともキャンセルに。びっくり!
しかもその日は、体調不良でダンナも急遽お休み。久々にのんべんだらりとすごしたのでした。これまた、まるで仕組まれたよう……。上手くできてるなぁ!
(だから、キャンセルしたお二人は、「ごめんなさい」って思わなくていいのよん。とてもありがたかったの)。
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つまり、「こんなに忙しくしてはダメなんじゃないか、どうしよう、どう予定を組もう?」「ヒマになったらどうしよう??」なんて心配はしなくていいみたい。
休憩が必要と思ったら、休憩がやってくる。仕事をしたいと思ったら、クライアントさんがやってくる。友だちと会いたいと思ったら、友だちがやってくる。
「そうではない」と思っているときは別だが……。
不思議! 人生って面白い。うまくできてるぅ! 感心感心。
2003.10.28(火)思考が現実をつくる
「人生っておもしろい! うまくできてる!」って、最近はちょくちょく思う。だって、そういうことが起こるのだもの。で、ますますそう思い、ますますそういうことが起こる……ような気がする。
いつごろから、だろう?
今年の春に、「人生に絶望してる」「人生を諦めている」自分を発見した。人生は辛く、苦しく、暗く、生きるのは苦痛だ……。「今日も生きなくてはならない」と重苦しく、うっとおしく、朝、起きる瞬間がどうしようもなく辛かった。
そういう自分を否定していて(うすうす気がついてはいるのだが)、それはいつまでもあり、ますます勢力を強め、それでも否定し続ける。そういうサイクルができていたんだろうな。
それをハッキリと認めた。「そうだ。私は人生に絶望してる!!」。
それがサイクルを破った。
認めたことで、「絶望しているインナーチャイルド」に声をかけ、抱きしめ、話を聞き、一緒に泣くことができた。
何カ月も経って、気がついたら「人生はおもしろい!」と思う自分がいた。そして、そういうことが起こり始めた。
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「視点が思考を創り、思考がすべてを創るという真実さえ覚えていれば、……」と「神との対話」で神さまが言ってる。「人生は苦痛だ」から「人生はおもしろい」に私の思考が変わり、それにともなって、現実が変わった。
泣いているインナーチャイルドが、視点を変えてくれた。絶望している理由がわかったから。母が床屋さんをしていて、誤って私の耳を切った。痛くて泣いているのに、「ダイジョブよ」と言われ、「わかってくれない!」と絶望した。お箸がほっぺたに刺さった。そういう些細なことが積み重なって、絶望を深めた。
オトナになった私が、インナーチャイルドの話を聞いて、「痛かったね」と共感してあげる。すると、インナーチャイルドが安心する。「ダイジョブって言われるより、イタイってわかってほしかったね」「おかあさん、間違ってたね」……そうやりとりしたら、「わかってもらった!」と嬉しくて。
そしたら「人生はヒドイ」という視点が消えた。「あれは新米ママのマチガイだった。許してあげる」。そして思考が変わった。
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思考が現実を創る。
だから、自分の思考を探ること。深く深く……。こころの奥の、その奥まで。そして見つけた思考を認めること。否定をやめること。
自分が人生に絶望してる、なんて、かなりの衝撃だったけれど……。
でも、絶望している自分に気づかず、「人生はオモシロイ」と唱えても、なにも起こらなかっただろう。かえって「絶望している私」が「なに言ってるのぉ! 私を見てよ!! ここにいるんだよっ(;_;)」と暴れ出して、手が付けられなくなったかも知れない。インナーチャイルドは無視され、否定され、理解されなくて傷ついているのだから。
自分の思いを知れば、人生は変わる。無意識に紡いでいる人生を、意識的に創り出すようになるから。……うーん、シンプル!
いまんとこ、自分を知るのが一番の関門? でも、慣れてきたら結構たのしい作業だよね(ときに、息切れもするけどさ)。知っても知っても知っても知っても、まだまだ知らない自分がいるから、ね。