2004.6.1(火)錦の御旗?
「むかし、母が『鍛えた体はきれい』と言って、そうかと思うと同時に無意識に『鍛えてないからだはみっともない』と思いこんだの。これって対偶っていうんだっけ?」とダンナに訊いてみた。すると「対偶は『鍛えてなくても、きれいなカラダがある』で、それは逆か裏か……あれ、どっちだったっけ」。
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「鍛えてなくても、きれいなカラダ」!!!
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ああ、そんな考え方もあったなんて……。ショック! 衝撃! 目から鱗!!
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数学(論理学?)が苦手な私が悪いのか? 数学のいい先生に出会わなかったのか(いや大学の藤原先生と予備校の金先生はよかった)。
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そんなことを言い出した母が悪い……みたいに思ったこともあったけど、それを受け入れたのは時代に、社会にそんな雰囲気が充満してるからでもあるし、そういう「ジョウシキ」というか「ひとの意見」に踊らされた結果なのだ。
ある特定の個人のせいでもない。
こういう「洗脳」というか「マチガッタ思いこみ」は、いろんな場面で刷り込まれてしまうのだろう。ひとつひとつ気がついて、静かに見つめるほかない。
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瞑想をすると、目のあたりにすごい圧迫感がある。ド近眼と関係があるのかも……? 中一の身体検査で視力が落ちてるのがわかって、予備校のころは裸眼でもよかったんだけど、いつの間にか右目が0.1を割っていて。そりゃ父は結婚をためらうほどのド近眼だけど……子どもの目が悪くなるかも、と言ったんだそうだ。
ふと浮かんできたのは、「母をシャットアウトするため……??」。
「どこに目ぇつけてんの?」とか「そこにあるのは節穴(ふしあな)?」とか、よく言われていたのが、実はすごく応えていた? ホントはものすごく傷ついてた??
でも目が悪くなったら、「見えないんだもん(控えおろう!)」と母をかわせる。父が「目が悪いから子どもをお風呂に入れられない」と断ったのは有名な話。目のいい母にふりかざせば、ぐうの音も出ない。母の弱点!
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めがねを作りに行ったら、目医者さんが「いまなら視力回復もできる。めがねとどっちがいい?」と訊いた。
即座に「めがね」とこたえた私。
なんど後悔したことか。どうしていい目を取り戻そうとしなかったのか、と自問してきた。
でも、そういうことなら納得だなぁ……。
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そうなんだ。母はイヂワルなんだと気づいた。
ほとんどの人と同じくらい、フツーにいじわる。たいていの人が隠そうとして、隠しきれなくて子どもにぶつけるような、ごく通常の意地悪ばばぁなのだ。
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うちはごく普通の家庭なのに、どうして私はこんなに脆く傷だらけで、セラピストになろうと思うくらい繊細なのか、悩んできた。やっぱり私がヘンだからなのか、と。母は実は言語道断なくらい、非道な人なのか?? イヤ違う……、と。
問題はそうじゃなかったんだな。
母がイヂワルだと、ありのまま認められればよかったんだ。なのに、「理想の人」と勝手に祭り上げて、その理想像にそわないことは認めない。正当化する。そのために視界を、世界を、心を歪ませてきた。
意地悪なオバハンがまた「どこに目ぇつけてんの?」と言ってるよ、毎度毎度……と思えていれば、正常な視力を失うようなこともなかったんだろうな。ここまで自分を痛めつける必要はなかったんだろうな。
「理想の人」が「ひどいこと」を言うのだから、よほど自分はダメなんだ……って思ったんだね。自分がいけないんだから、「傷つく」なんて甘っちょろいことも言っちゃいけない……みたいな。
2004.6.4(金)健やかなるときも病めるときも
落ち込んだり、うつになったり、ひきこもったりの時って、やっぱり「悪いこと」みたいな気がしていた。誰かに「落ち込んでも、その状態をいとおしんであげてね」などとエラソーに書きながら、自分でもあんまりぼへーーーとしてると、人生ムダにしてる……みたいな気分。
このごろは元気なときより、落ち込んでる時間のほうが長いんだけど、あるふとした瞬間に前よりもずぅ〜っと気が楽になってる自分に気がついたりする。
あら。いいじゃない??
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仕組みはよくわからないが落ち込んでいるときにも、心の中ではいろんなことが起きてるんだな。内省的になって、自分の深いところまで意識の光が届くのかも知れない。
むかしの仙人(!?)や修験者や世捨て人は、自ら望んで引きこもっていたんだもんね。その「修行」をしてるんだと思えばいいのさ!
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腕の皮膚がぽろぽろむけて、砂漠で日に焼けたからかなって思った。すると日に当たってないはずの足の皮までポロポロ。溶連菌が皮膚に来たのか!?
ミテも感染してた? 元気がなくて当然だったのかもね。
いずれにしろ、不元気万歳!
2004.6.7(月)いい人からの脱皮
テレビで「シンドラーのリスト」を見た。終わりがけの10分くらい。収容所に捕らわれているたくさんのユダヤ人。「あ、集団……」。
団体行動が苦手なワケのひとつなんだろうな。
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毎日新聞で立て続けに「いい子」はアブナイんじゃない、もっとよく考えなくっちゃって記事がでた。6月6日付朝刊の「発信箱」では
そろそろ我々大人は気づくべきではないか。「いい子」を求めすぎて、子供たちを窒息させかけていることに。
7日付朝刊「教育の森」には「『いい子』の苦しみ分かって」「『子供の時間』返してやろう」の見出しが。
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無理していい子やってるんだから……ひずみがでるのは当然なんだよね。いい子だった私も、心から同意する。「いつも明るく元気で、素直。トラブルも起こさず」なんて……。
明があるから、暗がある。陰があるから陽がある。満月があれば、新月がある。暑い日があれば、寒い日がある……こういうことこそ「ジョウシキ」なのだ。
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「はーい、元気ぃ?」「ううん、今日は低空飛行なの」「そお? 大事にね」なんて気軽に挨拶できる世の中なら、よいだろうね。
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未だに、ついつい「いい人」を演じてしまうので、意識して「非・いい人」をやっている。ミテが一冊持ってる本が絶版なんだって。「どこかにありませんか?」と問い合わせをいただいたが、「残念ながら」とにべもなく。
「午前中にセラピーを受けたい」と要望もあったが、「はいはい」と受けずに、午後にやってる理由を説明。
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「なんで応えてあげないんだ!? できるだろう? なんか手があるんじゃないか?」という声も聞こえてくるんだけど……その声を無視するのは、それはそれで苦しいんだけど。
でもね、「いい人」をやると、心の奥底で相手を憎んでしまうんだもん……! 怒りを溜めてしまうんだよね。
「いい子」がアブナイわけでしょう??
2004.6.9(水)傷つきやすさも贈り物
神さまによると、「魂はけして傷つかない」んだそうだ。
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そんなバカな!! と思うほど、傷ついては落ち込んでばかりいるミテ。傷つくのは怒りとも関係があって、怒りの底には不安があって……。つまり不安だらけなのかなーー??
しかも以前は自分が傷ついていることを自分で認めなかったから、傷はますます増えて、深くなり……。抑圧って破壊的なんだわ〜。
「傷ついてる」って言えるようになったら、楽になってきた。
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でも、だ。
これほど「傷ついてばかり」のミテが、「あ〜っ、本当だ! 傷つかないんだ!」ってわかったら、それほどインパクトがあることもないだろうな。ほんとうに本当だったんだ、って、身をもって知ることに。ホントに納得! 心から!! ってなことになるんだろうな〜。
あんまり傷つかない人だったら、「当ったり前じゃん」で終わってしまうかも知れないからねぇ。
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ということは、「傷つきやすい」ってすごい贈り物?? 「傷つかない」と理解する瞬間は、そりゃあ嬉しいだろうなぁ!
そのためには傷ついたときは、「傷ついた」ってハッキリと認めること、だなぁ。隠したり、否定したりすると、案に相違して傷は深まるばかり。
認めれば、自分の手の内に入る。「自分じゃないこと」はなにも変えられないからね……。
2004.6.15(火)ほんとは妄想の世界にいるのだ
子どもたちに「生命の大切さ」を教えなくちゃ、と言われるけど、どうやって教えるんだろう?? イラクやパレスチナで毎日のように人が人を殺してるし、新聞社会面にだって殺人が載らない日はないし、娯楽ドラマだって「○○殺人事件」は花盛りみたいだし……。
それに「生きてるってスバラシイ!」と感謝して日々生きてる人ばかりではないだろう……。うつの人はますます増えているのかもしれず。
生きるのは苦だ、と思いながら、口先だけ「生命を大切に……」って言っても……。
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そういうミテはまたも鬱々としてる。「ちょいうつ」、だな。
楽しくない。なにをする気もしない。
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って言うか、ちょっと前まではなにかしようとすると「うまくできるの?」「やめたほうがいい」って声がしてきて、できなくなってしまっていた。手紙を書く、とか、庭をやる、なんてことまで……!
内在化した母の声。いまは自分の一部となった声。
「なにもできないんじゃ、毎日つまらないよね」って夢の中でだれかに言われた。
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それでもボチボチ家事なんかはやっていて。
どっか出かけるとかして、気を紛らわせようかなぁと思った。すると「せっかく自分と向きあうチャンスなのに。紛らわせていっとき逃げても、またぶり返すよ」。
それもそうだ。自分を知るチャンスだから、ちょっと瞑想なぞ。
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母の姉は心配性である。母もそうだろう。わたしが誰かとつきあうと、「いまにブスッと刺される」と心配していた(いったい、わたしをなんだと思っているのだ?)。
よくよく自分を見てみれば、わたしも心配性。
旅行の前には「生きて帰れない」と思う。出かけると「家が火事になる」と思う。母になにかプレゼントしようとすると「こんなもの」とけなされると思う(これはホントかも(-o-;)。車を運転すれば、事故に遭うと思う。近所の人はわたしの悪口を言ってると思う。ひとは私を嫌いだと思う。いまに誰かが怒鳴り込んでくる、と思う……。
心配性というより、なんでも悪く悪く考える。妄想もだいぶ入ってる。ミテクルワールドは被害妄想に満ちている……。
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それじゃー、「生きてて楽しい!」なんて、心の底から思うことあるわけないじゃん。容易にうつになって当たり前じゃん。
うーむ、そうだったのか。すごく納得。
わたしは母の心配性(妄想?)を受け継ぎ、母や叔母はだれか(祖父母?)のそれを受け継ぎ、それだって誰かからもらったもので……先祖から有り難く頂戴した妄想の系譜。縦糸のみならず、横糸だってあるんだろう。
ダンナもよく無気力になるから、彼には彼の「妄想ワールド」があるのかもしれない。
いまはミテ的妄想ワールドを認めてあげることだな。抜け出ようとするのはやめ。
2004.6.22(火)60%
高齢者介護の新聞記事にたしか「100%やろうとしないこと。60%を目指そう」みたいなことが書いてあった。
おお!
自分を省みて思う。それって介護に限らないだろうナー。とくに完璧主義っぽいミテたちのような人には。
キマジメで几帳面は「いいこと」みたいだけど、それで自分を苦しくしてしまうんだもん。鬱になる割合も多いだろうし。
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100%じゃなくて、「できる範囲でいい」って言えればいいんだよね。「もっともっと」と言われることで、人は自分の存在感を否定されてしまう……って読んだことがある。
そうだなぁ〜。
「いまのあなたではダメ」と言われてるってことだもんね。
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昨日の毎日新聞朝刊「教育の森」。「佐世保事件『専門家と考える』」は先週の専門家の話に読者が寄せた意見の特集だった。見出しには「親の理想に合わせ心を閉じこめさせ」とある。
高校生のメールには「いい子の苦しみ分かって──という見出しを見ただけで、涙が出そうになった」と。それを読んだだけで、涙がこみ上げて来ちゃった。
「でも、いい子にしていればいるほど、親の言うことがいちいち頭にくるようになりました。……」。
そう、そうなんだ。そういうカラクリなんだよね。
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ただ、素直にその存在を認める。あるがままに。
泣きたいときは泣く。怒りたいときは怒る。笑いたいときは笑う。
いちばん簡単そうでいて、いちばん難しいことなのかな……。もうもうストレスで無理に我慢を重ねて、歪みまくった場合でも、ありのままを見ていれば、素に戻っていくものなのかなぁ……。
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落ち込んだ気分から抜け出すと、落ち込んでいたときの苦しさがウソのよう。
まるで別世界。
何度も行ったり来たりして、どちらにいるときももう片方のことがわかるようになるといいな。そしたらもう実際に体験する必要がなくなるもんね。
2004.6.25(金)新しき流れ
日本人は自己主張できない、なんて聞くじゃない。あんまり考えたこと、なかったんだけど……さいきん、「ん?」と思ったりする。
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いまセッションは平日午後、しかも女性のみ。気まぐれにころころ変わっている。
週末にしてほしい、午前中がいい、というご要望もいただく。「いい人」をやめる練習中なのでお断りもするし、のっぴきならない事情だったらオッケーすることもある。
ダンナの都合を聞かなきゃイケナイ以外は、自分で決められる。だれに気兼ねなく、臨機応変にやってる……と思っていた。
でも、気がついたんだ。ご要望をいただくと、一瞬ムッとしてる自分に。
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自分の思い、気持ち、考えをひとに伝えること。
それができないのかもしれない。つい気兼ねして、我慢する。そうすれば丸く収まると思い込んでる。
……ほんとは心の中で怪獣「怒りん(いかりん)」が育ってるんだけどね(-o-;。
自分ができないから、人からされると怒る。それは「しちゃいけないこと」だから。
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きっと両親を見ていて、そう思い込んだんだろうなぁ。母は──意識してはいないだろうけど──異常なまでに父に気兼ねする人なんだよね。たとえば叔父(母の妹の連れ合い)にだったら、なんだって言えるし、どっちかというとブゥブゥと文句は多い人なのに。
ふたりの歴史になんかあったんだろうけど、前世も含めてね。
どうしたって、親は子供の人生モデルだから、それを取り入れてしまったんだろうなぁ。なるべく自己主張しないこと、と。
どうでもいいようなことは言えるから、なかなか気がつかなかった。
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わたしがそうであるように、日本の多くの家庭でそういう状況なんだろうかね。
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自己主張っていうけど、要望、わがまま、文句をつける、評価、横槍を入れる、非難、抗議……とごっちゃになってしまっていて、なんかすごくワルイことと思っているみたい(^◇^;)。
だから、わたしが要望を言うときはしばしば、怒りの爆発を伴った非難になってしまう。やむにやまれず、とか、追いつめられて猫を噛む、みたいな。子年だし。
「だまってしのぶ」「遠慮する」のが美徳、って、どっかで植え付けられてもいるだろうし。文化的にも根が深そう。「ガイジンは自己主張するから、あなたもしましょう」なんてことで解消するようなもんじゃない。
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でも、自分のことは表現しないとわかってもらえない。なにより「怒りん」を飼い続ける理由などない。自己主張も練習項目に加わることだろう。
「なに飲む?」「コーヒーがいいな」っていう自己主張はなんらマイナス面ないじゃない。理性で考えれば。(いやこれくらはできているが(^◇^;))。
自己主張、要望を言う、ってことと、非難、わがまま、横槍と、区別していこう。
自分の不機嫌に気がついてヨカッタなぁ。
いまは病院でだって、インフォームドコンセントが求められる時代。自分の意見を言うことが大切、っていう流れがカクジツに育ってきているんだものね。
2004.6.28(月)苦しみがあったからこそ
井上ひさしさん原作の「父と暮せば」を見た。原爆で生き残った主人公。おとうさんも友だちも、死んでしまった。
「うちは生きていてはいけんのです」「しあわせになってはいけんのです」。
罪悪感でかたくなになっている主人公。23歳の娘さん。お年頃。ステキな人と出会って、胸がときめいているのに、それをイケナイコトとして押し隠そうとする。
生きる資格。生きる権利。
そんなものはなく、生きてるから生きる。死ぬときは死ぬ。死ぬっていっても、ほんとは生きているのだし。ただそれでいいんだ。生きてるのなら、それはすばらしいことなんだ。権利もへったくれもない。喜びに満ちて生きるために、生きてるんだ……と思った。
苦しくて死にたくなることだってあるけど、ああ、そうなんだと思って泣いた。
原爆はむごい、と思って泣いた。人が人にそんなことをするなんて。いまも違うカタチでむごいことがたくさん起きているなんて。
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ブライアン・L・ワイス博士の「魂の療法(文庫では改題)」も読んでいる。
本屋さんで目につくのに買えなくて、買ってはみたモノの長いこと読めなくて、やっとゴーサイン。
ああ、愛かぁ!
落ち込んでいる間、ずうっと忘れていたことに気がつく。いや愛から切り離されてるから、落ち込むのかも。切り離される? いやいや、自分で切り離してしまう……。
やっぱり、喜びに満ちて生きるために、生きている。
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湘南弦楽合奏団の演奏会に行った。楽器屋さんでチラシを見つけて。
ヴィヴァルディの「四季」。ソロ・ヴァイオリンは高木聡(そう)さん。小ホール。目の前で演奏してる。大きなホールとは違う、もっとナマの音。
生きてるっていいなぁ、って思った。こんなにステキな音が聞ける。楽しい。
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いのちは神聖なもの。大切なもの。喜びそのもの。
それが五臓六腑にしみわたるまで(?)、どんなときにも忘れないでいられるようになるまで、また繰り返し落ち込むだろう。
でもそうやって、忘れては思い出し、繰り返しているうちに、ほんとうに心の底から、全身全霊でわかるようになる! そのすばらしさを片時も忘れないですごせるようになる。落ち込んだ経験があるからこそ、喜びの素晴らしさが数倍にも輝く。
「大義名分があれば、殺すのもやむなし」なんて心が迷うことは、のうなるのだろうな。
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大河ドラマ「新撰組」。ちゃんばらシーンだった。局長・芹沢鴨を亡き者に。
テレビを横目で見ながら、「いのちは神聖です。だれも奪ってはいけません」と言うと、「NHKはそんなことは言わないんだよ……」とダンナ。
歴史って、いわば戦争・殺し合いの記録。友だちの説だが、そうだよねぇ。いのちは神聖だとわかるまで、何千年も何万年もかかってるんだもんね。