2005.9.30 更新

2005.9.4(日)美徳とか健気とか言われるしな

もうヤダなぁ、とぼやきながら件(くだん)のメールに返事をしていた。この場合、「愛」ってなんだろう、「抵抗」ってなんだろうとクドクド考えながら。

ダンナが「相手にするからだよ。僕の忠告を無視したんだから、自分でどうするか決めるんでしょ」。

そうだけど……ほっとけと言うの? それはどうなんだろう? 人として?

そのとき、「ぷっすま」という番組をやっていた。ドッキリの仕掛けがある芝居をするのだが、主役(?)だけ、どんなドッキリが潜んでいるか知らない。主役のビビリ度(なに測ってるんだろう?)をモニターしながら芝居は進む。

舞台は海の家。主役はウェイトレス。やくざ風の人が来て、「注文と違う!」など難癖を付ける。女の子はすごーくビビっている。気持ちよさそうに、つけこむやくざさん。

あれ? もしかしてこれって、今の私の状況……?

♪♪♪♪♪♪♪

いやだー、なにこの人ー、という自分の気持ちを無視してる。返事しなきゃー、困ってる人を助けなきゃーという強迫観念に動かされてる。

イヤイヤこわごわって気持ちにつけ込まれてる。

わたしがなんとかしなきゃ、誰がこんな人、相手にするの、なんて思ってる。

相手がどう思うだろうか、怒っちゃイヤだ、と恐れて、振り回されてる。

♪♪♪♪♪♪♪

これって、バタード・ウーマン(自分を痛め付けるパートナーから離れられない女性)と同じじゃん。

共依存だ!

親切とか、愛とか、受け入れるってなんだろうとか理屈を付けて、自分のありのままを見てなかったんだ。

これは虐待。現時点の私にとっては。

自分が傷つかず、迷惑と思わず、高い視点から眺めて「完璧さ」を見て取れるのなら、虐待ではない。すこしでも困って、怖がってるんじゃ虐待。コントロール・ドラマ(互いに相手を支配しようとすったもんだすること)を演じているんだ。

虐待なら、中止する。「人を虐待してもいいんだ」と思っている人は不幸だから。

♪♪♪♪♪♪♪

こういう教えって紙一重だなー。よく気がついたナー。経験して苦しんで煩悶して、いったんそこから離れてみて、初めてわかるっていうか。頭だけでアレコレ考えてたんじゃ、なかなか区別できないだろうなー。

また何度か同じ罠にはまり、だんだん上手に見分けがつくようになっていくのだろう。

♪♪♪♪♪♪♪

自分の恐怖や不安と向きあうこと。その存在をありのまま認めることの大事さ。

「怖くなんかないもん」「辛くないもん」と自分を誤魔化すのは、結構な陥穽なのであろう。

すごくイヤな体験だった。でもすご〜い気づきがあった。目から鱗。エポック・メイキング。

そういう意味じゃあ、ジョナサン・ケイナーの占いが当たってる、かな。

♪♪♪♪♪♪♪

で、あさって、また恐怖の体験が待ってるんだなー。会いたくない人に会う。わたしの大事な人をけなしまくる人、すごく攻撃してくる人。会ってる最中、ほぼ悪口しか出てこない。うちの母より上手(うわて)。ううう……。

この教訓をどう活かすのか。って、次の設定がもうできてるんかい。はぁ〜〜。これもジョナサンの言うとおり。

なんでだー!!!! 「偶然」はないのだから、思いが実現するまでの時間が短くなっている? 気づきにかかる時間も前より短くなった?

クビの後ろがすでに緊張して、痛かったりする……(-o-;。

攻撃は「悲鳴」なのだ、って、動じなくなるのももうすぐなのかなーーー!

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2005.9.5(月)手放す

自分にバタードウーマンの要素が色濃くあったことに気づいたら、お医者さんに関してもそうだナーとわかった。

咳と息苦しさがあるので、クリニックに出かけた。去年、行ってみたら肺炎だったので、それだけチェックできればいいや、と。

ここはコレステロールが高いのを治療していたところ。いまはやめちゃったけど。

♪♪♪♪♪♪♪

案の定、お医者さんがコレステロールのこと、なんだかんだ言い始めた。かしこまって聞いてるフリをしながら、「ああ、わたし、この人を怖がってる、怯えてるなー」と自覚する。先生はいつもながら人の話を聴く耳もってないし、「このままじゃあ、動脈硬化が……」と脅しにかかる。

8月14日の毎日新聞に、「労働安全衛生法,老人保健法,健康保険法などの健康診断は有効でない項目が多い」 ( 厚生労働省研究班まとめ)つー話が出てた。血中コレステロール値も「心筋梗塞予防に有効との証拠なし」だって。まあ、ひとつの研究結果にすぎないのだけれど、ご存じないのかな〜?

見たところ先生は顔色が悪く、まぶたに色素が沈着。白目が濁って血走ってる。腕にはかきむしったのか、かさぶたが。……どっか悪そうだわ。

ここって、あんまり患者さんを見かけない。いまどき、こんなお医者さん風をふかしてれば、患者さんも寄りつかないよねぇ……。腕はどうでも、話を聞いてくれる人のとこに行っちゃうわ。

それをわたしってば。

経営は大丈夫かしらと心配したり。行ってあげなくちゃなんて思たり。頼まれもしないのに、勝手に背負い込もうとするとこがあるんだなぁ。それが親切だとか、愛だとか、勘違いして。

♪♪♪♪♪♪♪

子どものころから「わたしがなんとかしてあげなくちゃ」って、なにかにつけて思っていた。思うだけで、具体的なことをするわけぢゃないし、なにか効果を生むわけでもないのだが……。

もって生まれた素質があって、躾や教育のおかげで花開いたんだわねぇ。

でも、もういいや。

目的もなく「イヤだけど、歯を食いしばってガマンする、勝手に心配して背負い込む、虐められるにまかせる」なんてのは。

楽器弾きたくて、自分の下手さにウンザリしながらも練習を続ける、てのとは本質的に違うもの。

先生は私に大事なことを気がつかせてくれた。大きな「贈り物」をくれた。ありがと!

先生の人生は、先生のもの……。誰だって、自分で生きていく力をもっているんだものね。さよなら♪

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2005.9.6(火)いちばん辛いのは本人か

ドラマを見ていた。年若い主役。「うーむ、もっとマシにセリフをしゃべれないものか」と無責任に批判。脇を固める名優たちに、下手さ加減がイヤでも際だってしまう。

♪♪♪♪♪♪♪

あ、そうか……でも。

うまくない演技にもどかしさ、歯がゆさ、悔しさを一番感じてるのは本人か。

追い打ちをかけるわたくし。……イヂワルだったわ。ごめんね。

♪♪♪♪♪♪♪

戦後60年ということで、見応えのある番組が目白押しだった。戦いの無惨さ、むごたらしさ。人間の弱さ……いろいろと自省もし、泣きもし、混乱もし……。

そして大河ドラマのクライマックス「壇ノ浦の合戦」。

次々に入水する女性たちの哀しさはあるけれど、美々しい甲冑、武士の凛々しさ……「戦はカッコエエがねー」なんて思ってしまった。

おいおい、違うだろう……!?

ガダルカナルも、壇ノ浦も、沖縄戦も、イラクも、ディエン・ビエン・フーも、ノルマンディーも……本質は悲惨、悲劇なのに、そこをすぐ見失ってしまう……。

見失わせるようにか、大義名分で正当化するとともに、戦の装束はかっこいいデザインになってたりするのよねー。予科練とか、ナチスとか、源氏とか。すぐ乗せられてしまうんだわ。

♪♪♪♪♪♪♪

NHK の番組宣伝で「いよいよ、壇ノ浦! 源氏か!? 平家か!?」って、どっちが勝つか、結末を知らない日本人……いるのか?

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2005.9.9(金)日常のなにげな傷

骨の折れる人と会わざるを得ず……。浮き世の義理。

その前に体調を崩して、ザラザラ薬を服むダンナ。そのあと、ホッとしたせいもあるのか体調を崩すミテ。

日本の医療を支えているのは……患者を次々に創り出しているのは、イヂワルな思い、ネガティブな言葉や態度……なんだわねー、と思ったことだ。

うむ、それでお医者さまにもイヂワルな人が混じってる!? マッチポンプ? ははは。

♪♪♪♪♪♪♪

子育て中のお友だち。みんなそれぞれだけど、わたしが長年苦しんできたセリフがポロッとこぼれることも多い。こんなになにげない、罪のない(?)言葉に、わたしは深い傷を負ったっての?

わたし、繊細すぎるのかしら……? いまこの瞬間、この子はなにを感じてる? 大丈夫?

ビックリして、ちょっと固まってしまう。でも会話にはおくびにも出さず……。その子も「傷ついた」とは決して言うまい。

ママたちも煮詰まって、つい口をついて出ちゃうのだ、ってこともわかってきた。

♪♪♪♪♪♪♪

ラオス在住のお友だち。ラオスではみんな子どもに優しいし、子どもをあやすのが上手だって教えてくれた。若いオニイチャンでも楽しく子どもと遊んでくれる、とか。

町中で子どもが泣いて、冷たい視線に身を縮めたり、肩身の狭い思いをしたり、なんてないんだって。東南アジアは一般にそうだよね、と別のお友だち。

「先進国」日本と「被援助国」ラオス。どっちが「豊か」なんだろうかね。

かくいう私も子どもと接する機会などこれまでほとんどなく、それも「子ども苦手」に拍車をかけていたし、これは「少子化の悪循環」。日本社会は、少子化の坂道をこうして転げ落ちていってるのかも。

子どもが泣くと敵兵に見つかるから殺さざるを得ない……そこらへんに少子化の原点があったり……しないか??

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2005.9.10(土)自分もやってる

子どもに「なんでできないの?」という親を憎んでいた。具体的に誰っていうんじゃなくて、アタマの中で創りあげた「だれか」なんだけどね。

「そんなこと言うんなら、テメーで弾いてみろよ!(楽器を想定してる)」と、これまたアタマの中で悪態をついてみたり。

でも、テレビ見ながら「ちゃんとセリフしゃべれ」と思う私は、そういう「親」とおんなじことしてた。

自分が憎んでることって、かなりの確率で自分がそれ、やっちゃってるんだろーな。

♪♪♪♪♪♪♪

新聞の連載小説、W不倫の話である。いまふたりは海外に駆け落ちしたところ。ふたりの逃避行がばれるのは時間の問題……あと少しで世間は大騒ぎになるであろう。

人気作家である主人公の男性は、どんなことになるかと思いを巡らす。「薄汚いお前たち、こんな恋愛をしたこともないくせに」などと、「見えない敵」に憎しみの炎を燃やしてる。

そうか……なるほど。

2人の行動にひとはさまざまな感想を抱くだろう。憎む人、共感する人、怒る人、寛大な人、関心のある人ない人……幅の広いスペクトル。だけど奥平センセイ(主人公)は、自分を非難する人をとくに想定する。一番インパクトがありそうだから、まぁ、当たり前?

でもこれが「選ぶ」ということなのかも。

自分は非難される。だからどうした! それがどうした!と開き直り、強がり……。理解してくれる人がいるかも、ってとこにはあまり焦点を当てない。いや、目の前にいる友人夫婦はわかってくれているのだが。

わたしも日々やっていること。こうして客観的に見ると、「あれ?」なんてイロイロわかってくる。こころの中で勝手に「敵」を創りあげて、それだけを相手にしてるんだわぁ……。

こんなすごい気づきを、どうもありがとう。

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2005.9.12(月)こころ乱れる

「フラメンコ曾根崎心中」を見ていて、「ロミオとジュリエット」も結果的には心中モノなんだなぁ、と思った。

ダンナとミテは互いに相手を刺す仕草をよくする。むかしむかしは、心中したこともあったかな。

いまは一緒にいられて感謝♪

♪♪♪♪♪♪♪

些細なことで心乱れる。

植木屋さんが庭を丸坊主にしてから、悲しくて庭に出られない。庭木で育っていたアゲハ(多分)の幼虫も助けられなかった。もうすぐ蛹になるとこだったろうに。去年も同じに悲しくて無気力になった。今年も悲しくてたまらない。

植物たちは元気で、したたかで、再生していく、と知っているけど……。

変なメールや、苦手な人に会う緊張、人混みに長時間いること、今回の選挙結果……。そんなことにも心乱れ、体調を崩す。

いまはそういう成長段階にいるんだわねー。心の平安を乱す要素がいっぱい。ゴロゴロ。

それに、とりわけ夏っていうと調子が悪くなる。夏バテもあるだろうが、さきの戦争の影響もある気がする。被爆者の苦しみ悲しみ、引き揚げ者の辛苦、抑留者の恐怖や不安、大人の豹変ぶりをみた子どもたちの怒りや軽蔑……この時期、我が身に蘇る。

♪♪♪♪♪♪♪

楽器を弾くと、すごく穏やかでポジティブになったりする。毎回ってわけじゃないんだけど……。

音楽って不思議だな〜。

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2005.9.13(火)簡潔に、明確に

質問みたいなメールをちょっと前にいただいて、でもなにがポイントかよくわからなくて、悩んだ末、そのとき「これか?」と思った返事を書いたんだけど。

そのあと返事も来ないし、時間が経つにつれ「はずしたんだなー」とまた悩んだりして。

ホントは、あの二行下の文章がキーだったのかな……とか考える。

♪♪♪♪♪♪♪

宇宙はいつも私たちに答えてくれてるんだって。

でも、質問がハッキリしないとき、紛らわしいとき、曖昧なときは、さすがの宇宙も困るんだろうな〜。

そんなわけで「祈りは短い言葉で明確に」などと言うのだな。質問が明瞭であるほど、答えも得やすいということだ。大事なことを思い出したなぁ。ありがたい。

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2005.9.14(水)こわいから……

死の影が色濃い病気の彼女は、でもおかあさんに苦しさや不安を訴えられなかった。おかあさんは「わたしがあなたをこんなカラダに産んでしまって、ごめんなさい」と自分を責めていたから。

世話をしてくれる母親に、ほんとうの気持ちが言えない。「それが辛い」と彼女は涙をこぼした。

かわいそうだ、ひどい話だと思った。わたしはそのおかあさんを責めている? そうだった。非難する気持ちがあった。

人を責めるからには、自分がおなじことをやっているハズ。なんだろう?

♪♪♪♪♪♪♪

そうだ。彼女のお母さんは、娘の病苦、娘の死を見たくなかったんだ。苦しくてたまらなかった。親としては逆縁(子どもが先に死ぬこと)ほど怖いものはないのかも知れない。

それを責められるだろうか?

人の話を聴くということは、その人の苦しみや悲しみの一端を我が身で感じること。友だちやクライアントさんの苦しみが、わたしの手にはあまると感じたとき、わたしも話を遮ってしまったり、はぐらかしてしまったりしているのだろう。怖いから。できない、から。

それを避けるには、自分の苦しみにキチンと向きあうこと。自分の成長度合いをキチンと認めること。そうやって、少しずつ耐性を高めていく。成長していく。それしかない。

♪♪♪♪♪♪♪

世の母親の多くは、娘が自分の苦しみを訴えると「どうせ私が悪いんでしょ。育て方がマチガッテいたんでしょ!」と逆ギレしたり、拗ねたり……。

彼女らも、向きあうのが怖いんだね。「死」のような一大事ではなくても、諸々なことに不安を感じてるんだね。

「悪い人」って言うわけじゃないんだ。

子どもの多くは、親に本音をかくすようになる。おかあさんが怖がって動揺したり、叱ったり、切れたりするのを見たくないから。子どもたちは親を思いやるから。

恐れや不安が人間同士のコミュニケーションを妨げて、問題を再生産していく。

ひとりひとりの恐れや不安が薄まると、もうちょっと楽な世の中になるだろうね。

♪♪♪♪♪♪♪

彼女との会話からなん年も経って、その大切さにやっと気づいた。どうもありがとう。

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2005.9.15(木)優しい眼差しで

狭い道をムリクリ車が通っていった。

「なんなのよっ!」とこころの中で毒づく私。

幼稚園の子が「ママー、ここを車で通るのって迷惑なんじゃない?」。

ママは優しい声で、「そうねぇ。でも急いでたのかもしれないよ」。

はっ! そういう考えもあるのか。私ってほんと非難がましい。

♪♪♪♪♪♪♪

音信のふっつり途絶えた人のことをボンヤリ考えていた。考えてることにすら気がつかないカンジで。

「ときどきは私の日記など読んで、『なに書いてンだか。フン』と思っているに違いない……」。

ここでハッと気がついた。あれ! 私ってば、ほんとにイヂワルなことを考える。

♪♪♪♪♪♪♪

非難がましい私は、他人もおなじように私を批判的にみていると想定してる。そして非難されるのを死ぬほど恐れていて、「人生は辛い!」と嘆く。

一見、ひとに厳しいようだが、一番苦しいのは自分。自分で自分の首を絞めている。「辛い人生」を創りあげてるのは、わたしだ。

もういいや。非難を手放そう。

非難してるとき、「非難してるな〜」と気がつき、それを認めて、受け入れる。「非難してるな〜」と静かにわたしを見つめる。非難してる私を批判しない。ただ見守る。

いつか、非難が消えていくだろう。そして気がつく。消えちゃった! 気分も軽いな〜って。

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2005.9.19(月)素顔のままで

人生って、自分がいまどんな状態であるかをありのまま認識して、「いいよ、それで」と受け入れる旅なのかもしれない。

起きる全てのことが、出会う全ての人が、自分のいまを映し出してくれる。

♪♪♪♪♪♪♪

悪夢を見た。ダンナがいなくなって、探し回る。見つからない……。

焦って目が覚めた。彼は横にいてホッとする。だけど、不安は消えない。

今日、大地震が起きて離ればなれになっちゃうんだろうか? 今日はできる限り一緒にいた方がいいんだろうか? 私だけ生き残ったらどうしよう? どうやって食っていこう? 甘えたり相談したりする人がいなくなっちゃう! 誰にパソコンの設定をやってもらえばいいの? 悶々。

♪♪♪♪♪♪♪

ああ、そうだ。

わたしはこれだけ彼を必要としてる。依存してる。経済的にも、肉体的にも、精神的にも。

愛と必要性はベツモノだ、と聞いてはいても、必要性はこんなに高い。愛はまだまだチョッピリなのかもしれない。

だけど、いまは、こういうレベルなんだなー。心配や不安もいっぱい。

なるほど、これがわたし。

♪♪♪♪♪♪♪

「こうありたい」「こうあるべき」がいっぱいあって、自分がそこに到達してないって認めたくない。だから目が曇る。事実を歪めて見る。自分を偽り、誤魔化す。合理化し正当化する。

それをやめて、ただありのままを見る。真実を認める。

ただそれだけでいい。

そこから意識的な創造が始まる。

♪♪♪♪♪♪♪

太ったりやせたりを気にしてる、と正直に言おう。ひとに嫉妬すると認めよう。高慢ちきに人を見下すし。知らない人やものにはまず敵意を抱く。批判的だし。自分の意見を押しつけるし。知ったかぶりするし。

不安や恐怖もいっぱい。

昨日、デパートで女の人が大声で呪いの言葉をはいていた。ショウ・ウィンドーに向かって……。怖かったなぁ。

駅で子どもを怒鳴りつけて、髪をひっぱって小突くオヤジ、怖かったなぁ。腹も立った。誰かの怒りに接すると、動揺する。全然平気じゃない。

「絶望に効くクスリ」を読むと、すごく腹が立つ。読んでいると絶望的な気分になって辛いから、「こいつこそ、絶望のコンゲンだ!」なんて毒づいてしまう。まだまだわたし、絶望をいっぱい抱えていて、絶望を嫌ってるんだなー。避けたいんだな〜。

そういうありのまま。

♪♪♪♪♪♪♪

すべてモノゴトは、ありのままの私を見つけるために起きている。ただ認めて受け入れればいい。そして受け入れると、それは消えていく。

「あたしってシブチンね」とただ静かに見つめていると、気がついたときにはシブチンではなくなっている。シブチンを嫌い、治そうとしたり、否定したり、隠そうとしたりしてると、シブチンは強烈に増殖していく。手に負えなくなっていく。

♪♪♪♪♪♪♪

ありがと。不愉快なことも含めて、すべてに感謝。

※ただし、不愉快の最中には感謝するヨユウなし(^◇^;)。あとからわかるのさ。

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2005.9.24(土)水が流れるように

自然体……泣きたいから泣く、怖いから怖がる。おかしいから笑う。お腹が減ったから食べる。眠いから寝る。

それだけでいいんじゃないかなと思う。でも、それが難しい世の中なんだろうな〜。

♪♪♪♪♪♪♪

ネガティブな人がポジティブ・シンキングに転じて成功したという話はあるかもしれないけど(本もいっぱいある?)、まだそういう人に会ったことはない。

もともとポジティブ・シンキングの人はたしかに比較的ラクチンに生きていけるのだろう。羨ましいナー、そうなりたいナーと思う気持ちはわかる。

だけど、もともとネガティブな人が「ポジティブにならなくちゃ」と思うのは、いまの自分を否定すること=ネガティブなこと。根本にある「後ろ向き」を温存したまま、見かけだけ前向きにしようとしても、なかなかうまく行かないよね。

自分のネガティブを肯定して、「わたしは後ろ向きに考えちゃうのよね〜」とポジティブに受け入れることから変化が始まるのかも。

♪♪♪♪♪♪♪

体重が緩やかに減っていて、だけど人に「増えることもあるかもネ」と言われたら、数日間増加に転じてしまった。

そのときわかった。私は太ることをすごく恐れている。

その不安を助長するような言葉には、すごく影響を受ける。意識では同意しなくても、潜在意識に響いてしまう。自分が恐れている現実を創りだしてしまうほど。

♪♪♪♪♪♪♪

自分の(無意識に隠している)状態を知るためのひとつの方策は、自分が強く反応してしまう言葉を探すこと、かもね。

「あの人があんなこと言ったせいで、こんなことになった!」みたいな。

ほんとは「あの人」のせいじゃないわけだ。

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2005.9.26(月)万物流転

NHKの「クローズアップ現代」で、「笑いで病気を治せるか」てのをやった。笑うと血中にある物質が減ったり増えたり、ナチュラル・キラー細胞が活性化したり、ある種の遺伝子を発現させたりするのだそうだ。

こんなにいろんな角度から研究が進んでるんだ。すごい〜♪

笑いか。そ〜か。

♪♪♪♪♪♪♪

わたしは人が怖かったので、敵意と警戒と緊張をもって人に対していた。それを人にも自分にも隠そうとしてもいたけれど。

不思議なことに隠してるつもりでも、わたしの緊張や恐れは相手の敵意と警戒と緊張を呼びさますらしい。するとますます自分も緊張する。「この世はカコクだ、辛い……」という思いがますます強くなる。

悲しみや憎しみに苛まれている人のそばにいると、自分の中の悲しみや憎しみに焦点が当たって、こちらも辛くなる。

でも、ということはつまり、楽しさやほがらかさをもっていれば、ほかの人からも楽しさやほがらかさを引き出すことになるだろう。温かい心でいれば、ひとも暖かく応じてくれる……。

そんな風に人間は反応し合い、共鳴しあっているのかもね。

♪♪♪♪♪♪♪

常に自分は不十分だと思っていた。大学受験の時も、勉強してもしてもしても、「もっとできたハズだ」と自分をいぢめていた。

この前、子どもたちと合奏をした。もちろん完璧じゃないし、間違えもした。

でも、充分練習した、精一杯やった、満足だと感じていた。

そういう自分に気がついてうれしかった。長いことかかったけど、ちょっと前向きになってたんだわ〜。

人って変わるのね。

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2005.9.30(金)自由とヨロコビ

バフェ(ビュッフェ、食べ放題、バイキング)に行ったダンナがなんとなく不機嫌。問うてみると、一緒にいた友人が「親切」にも、われわれの分の蟹をとってきたからだった。

わたしは蟹をあんまりおいしいと感じない(生涯で3度、おいしいのに遭遇した)ので、彼がノルマ(?)を食べるハメに。

「なにをどれくらい食べるか、メンミツな計画をたてて楽しみにしていたのに……計画が滅茶苦茶に(~_~メ)!」とダンナ。

そっか、それだ! だから私はバフェが好きなんだ。

好きなものを好きな量、食べられる。自分で決められる。フツウのレストランだと「キミはこれだけ食べなさい」って量を誰か別の人が決める。つけあわせの種類だって、誰かが決める。誰か他人の支配下にいるわけだ(大袈裟だけど(;^_^A)。

わたしにとって、バフェは自由の象徴だったのね〜。店内をうろうろする自由もあるし〜。

♪♪♪♪♪♪♪

5000円札ではバスに乗れない。

運転手さんは1000円の両替しかしないからだ。で、困っている人がいて、私が両替して、一件落着。知らない人に声をかけることができた。困っている人の手助けができた。うれしい……。

嬉しくなった私の心に、「いい気になるんじゃないわよ」という声が聞こえた。

湧いてくる喜びを感じると、出てくるこの声……いままでずっと、葛藤してきたのだ。

誉められて嬉しくなると葛藤が生じて、顔はこわばり後ずさり。席を譲れば葛藤が起きて、恥ずかしくていたたまれなくなり、車両を移ってしまったり。

なにか嬉しいことを言うとき、「自慢してる」と思われないかビクビクしたり。だけど、自慢してるとわかっていながら、口が勝手に……と、とまらない、なんてことも。

なんてアヤシイ人! 鼻持ちならない人!

♪♪♪♪♪♪♪

本来は慢心を諫めるための言葉だろうに、わたしにとっては喜びを禁ずる呪文になっていた。

うれしさを、喜びを、感じて、なにが悪いんだろう?

感じてみた。

強いエネルギーがからだを駆け抜けて、湯気のようにユラユラと空気に消えていった。気持ちよかった。こんなに強烈なのかとビックリもした。

いいじゃないか。

喜びは生命そのもの。神そのもの。ひとつのフィールドそのもの。感じないで生きていくなんて、そんな辛いことはないぞ。

いい気分を制限するからこそ、中毒になって慢心してく……なんてこともありそうだ。

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