佐藤さんのことは鈴木秀子さんのご本で知りました。鈴木さんと一緒に死にいく人を見取られた話などを読んで、興味を覚えたのです。佐藤さんは「森のイスキア」という家をもっておられます。悩みを抱えた人たちが助けを求めて佐藤さんに会いに行きます。佐藤さんは近所でとれる旬のものを心を込めて料理し、ともに食べる。そして話を聴く。人は受け入れられたと感じて、一歩前進する。うわぁ、すばらしい!! わたしは人を全面的に受け入れたいと願っていますが、そこはそれ未熟者。腹を立てることもあれば、人を怖いと感じることもある。でも人にはよく思われたいので(自分にも)、そういう部分は隠しておかなくちゃと思っていたのです。きっと佐藤さんがお手本を示してくださる……。
うーん、でも。信仰の篤い(佐藤さんはカトリックです)古い人たちは立派すぎて、ついていけない……。一心に神様を信じて生きていらっしゃる。とてもマネできない〜! どうしようもなく抱えているネガティブなものを、具体的にどうしたらいいのか、知りたいのに〜! 落ちこぼれももっとあったかく見てほしい……! 「うーん」「うーん」と反発を感じつつ読みました。
でも最後の方にこんな言葉があったんです。「自分らしく生きるということは、自分に素直であること、自分を高く見せたり、卑下したりせず、今のありのままの状態を自分で受けとめることだと、私は思います」。あ、そーか! 誰かに対して腹を立てる自分も、怖く思う自分も、ただ受けとめればいいだけのことだ。背伸びをして「受け入れてるフリ」をするのは、なにかに目をつぶることだ! しかも佐藤さんをもってしても「誰でもを全面的に受け入れている」わけじゃない! 「面倒くさい」という人には寂しさを感じるし、「この人はコレでもおかあさんなんだろうか?」って感じるとも書いてあるじゃないですか。受け入れがたいことだって、あるんですね! 「カンペキに受け入れる」までの道のりは長いんだもん。焦ることないナ。やっぱりたくさんの気付きをいただいた本でした。(00.12.28)
上の本が出てから、宮迫千鶴さんとの対談集「『森のイスキア』で話したこと」が出て、そしてこの本、と続きます。実は対談集を読みかけたのですが、佐藤さんが離婚はダメ、不倫はダメ、受容性のない女性はダメ、と並べたので中途放棄。そういう人こそ、悩んで苦しんでるのに〜! 追い打ちをかけないで! と思いました。人を受け入れるときに、善悪の判断は抜き、と思っているから(自分が受け入れられる範囲を超えているときは、それを伝えます)。それに、ミテは離婚も不倫も経験してるしね。
だから読み始めも猜疑心があったりして(^◇^;)。だいたいの骨子は前の2冊と変わりませんが、でも、初女さんも少しずついろんなことに気づいて、いまでもどんどん変化なさってるんだな、とわかりました。河合隼雄さんとの対談もいい感じ。のほほんとした河合さんが(失礼(^-^)!)、かっちりした初女さんからいい味をひき出しているというか。 (00.12.30)
うん、この本ならこわくない(^^;。ふんわりと楽しく読めました。食べるもので人がホッとする。心を開く……すごいなぁ。ヒーリングとは特別なこと、限定された手法なのではなくて、なんであっても人を包み込むことができるんだ……。これだけ心を込めてなにかをする事って、ミテにあるだろうか。 (02.7.29)
スズキ・メソードってご存じですか??? アメリカの楽譜屋さんには必ず教本とCDが置いてあります(と言っても3軒しか知らないガ(^◇^;))。著者が考え出した楽器教育法(ヴァイオリン、チェロ、ピアノ、ギター……)なのです。彼はどんな子だって、必ず楽器を弾けるようになるって言います。最高の演奏を聴いて楽器に親しみ、弾くのを楽しみにしてあげればいいんだって!! 落ちこぼれを作るのは親や先生の責任。生まれつきの才能はないし、生まれつきダメな子もいないんです。子どもを見る目の優しくて、愛にあふれていること! 感動します。しかもホントに実績を上げていらっしゃるのですから! 鈴木先生のめざしていらっしゃることは「楽器を弾けるようになる」ではありません。音楽を通して豊かな生命をはぐくむこと。最高の人間教育法ではないでしょうか? (00.12.25)
言わずと知れた水木しげるさんのご本です。ラバウルにいた当時の絵(一部はちがう)にコメントがついています。戦争中、兵隊さんはこんな毎日だったのか。でもなんだって、訳もなく人を殴るの? 部隊が全滅して、ただ一人生き残った水木さんがやっとの思いで日本軍にたどりついたら、「なんで死ななかった?」ですって!? そんな風に生命を粗末にしてたら、戦う人だっていなくなるんじゃないの? 口では大東亜共栄だのと言っても、エゴ丸出しなだけじゃん。絶対の階級といじめ。暴力。どんな理由でも戦争はいや。 (00.12.30)
ご自分でもおっしゃっているんですが、「優等生」だなぁという感じ。生真面目、堅そうという印象です。ほんとうにヴァイオリンしか知らないんだなぁ……。何年か前にショスタコのヴァイオリン協奏曲第一番をアンドレ・プレヴィン指揮のN響と演奏されてます。その演奏はとても冷静で、それはそれで大好き。マキシム・ヴェンゲーロフの熱い演奏のほうがもうちょっと好きだけれど。彼女がこれからどうなっていくか、楽しみ!(01.3.1)
渋谷の柳門会将棋道場に行くと、よくさっちゃん(著者)がいました。遊び半分だったミテは1局しか教えてもらいませんでしたが(タシカ(^◇^;))、ダンナは師匠・宮田利夫七段に言われて、よくさっちゃんと指してもらってました。「一手一手にすごみがあって、怖い」とは彼の弁。でも、さっちゃんがどんな人なのか、全然知りませんでした。この本を読んでビックリ。体が弱いことも知らなかったし、養護学校に通っていたことも知らなかった。で、養護学校がどんなところかも知らなかったから、「こんなステキなところなんだ!」と思ったり。あちこちに見える冗談やシャレに、「さっちゃんて、こんな人だったんだ!」。だって、ダンナと指していて、ちょっと退屈そうにしてる……彼女には手が見えてるから……姿が一番、印象にあるから。これからも自分の道を生きて行かれることを、祈ってます。すごくたくさんのことを教えてもらった本です。(01.3.2)
29歳で亡くなった将棋の棋士・村山聖(さとし)九段。A級(プロ棋士のトップ11)のまま逝ってしまった。
彼が亡くなったころ、私は「死とは単なる通過点であって、終わりではない。忌むべきコトでも、タブーでもない」という考えに触れ、そうなのかなとあれこれ思いを巡らせていた。むしろ進級、進学、昇進と似た祝うべきものかも知れないし、疲れた人には休息が与えられるし……。
でも、新聞で村山くんの死亡記事を見た瞬間、思わず私は叫んだのだ。「村山くんが死んだっ!」
将棋を習い始めたころ、なんでか師匠・宮田利夫七段がミテに村山くんの話をしたのだ。「村山っていう広島出身の棋士がいる。小さいときから病気を抱えていて、そのせいでほっぺたがぷよぷよしてる。長く生きられないかも知れない。子どもたちに対局料のほとんどを寄付してる」。まだ将棋界に興味をもちはじめたばかりで、羽生りんの存在すら知らないころだったと思う。今思うと不思議。
一度だけ村山くんを見たことがある。佐藤康光もと名人と森内俊之八段を交えて新宿の雀荘に行ったのだ(すごいメンツ! もっともお二人は師匠とサンマをやって、ミテは別の卓だった)。そのとき、たしか村山くんが一人でふらっとやってきた。わお、村山くんだ〜っと内心興奮したのを覚えている。
それだけの邂逅だけど、深く印象づけられた存在だった。
最後の言葉は「2七銀」だった。名人に手が届くかというA級のまま亡くなり(彼も名人をめざしていた)、さぞかし無念だろうという追悼文をたくさん読んだ。そのたびに泣けた。こんなに悲しい。やっぱり死は忌むべきものなのか? 身近な(?)人の現実の死を前に、死とはなにか、心は揺れに揺れた。
そして一瞬、映像が見えたのだ。白い光の中に、村山くんが還っていくところだった。悩んで波立っていた心が、うそのように静かになった。彼はこの世でやるべきことを終えて、納得して門を開けたのだ……。人は無念と感じるが、村山くんは祝福の中にいる。……よかった!
死についてはまた悩むかも知れない。それでも村山くんのことは、忘れないと思う。(01.4.16)
もう10年以上も前に出た本ですよね。なんとなく敬遠していて、損しちゃった。すばらしい本です。とても面白くて、ぐいぐい引き込まれました。精神世界の入門書って言ってもいいよね。やっぱベストセラーにはそれなりの理由があるのね……。食わず嫌いを反省。いまは角川文庫にも入っています。
「アウト・オン・ア・リム」から続くシリーズ(?)の最後が「ダンス・ホワイル・ユー・キャン」で1991年に書かれてます。本書は95年に出ているのですが、あんまり精神世界のことは出てきません。精神世界の旅をはじめる前に書いたのかな、と錯覚するほどです。長く自分探しをしているシャーリーだけどまだまだ苦しみ悩んでいる、ということかな。彼女自身が心を整理するために、苦しい思いを書いて吐き出したという感じ。彼女の本は、新しいものほど率直に、正直になってます。(01.4.3)
東京湾をはじめ海の写真を撮っている中村さん。この本は写真集ではなく、エッセイね。読み始めたら、笑い転げてしまいましたo(^o^)o。こんな愉快でいたずらなヒトだったのか〜。すごく楽しいよ。ミテは生物学科出身で、大学では臨海実習などやったので、海の写真は好きなのです♪ 自分では潜らないけどね。(01.6.12)
卑怯を憎む数学者・藤原先生の痛快なエッセイ。アメリカでストリーキングもされた方だけど、やっぱり故郷・日本に心が回帰してきた……というか。異国と通じ合うには、自分の国をよく知らなくちゃね。とても共感する。
頑固さに吹き出してしまうところもたくさん。実は大学時代、唯一理解できた数学が藤原先生の代数学だったのだ。試験勉強をしながら、「数学が美しいとはこのことか!」とはじめておもった。代数学だけは自信をもって試験に臨んだの。これだけは大丈夫、とワクワクして問題を解いた。先生は初めから、「カンニングするくらいなら、ボクに聞いて下さい」とおっしゃっていた。そんなことしなくても、解けるもん! 実際、試験が楽しかったの。数学オチコボレのミテでも、今回は楽勝〜〜と、得意だったの。
それなのに……! 試験監督に飽きたのか、先生は試験の最中に黒板で問題を解き始めてしまったのだ〜〜。せっかく勉強してきたのに〜〜! あんな悔しいこともなかった(^^;。
なぜ、そういう先生なのか。そんなことがわかります♪ 楽しい本です。(02.4.6)
1951年生まれの著者が94年まで勤めた外務省での体験を綴った本。外務省なんてほとんど縁がない。数少ない体験はNYの日本領事館かなぁ。感じのいい人もいるんだけど、いじわるな人もいてあんまり評判はよくない。最近も友だちがアメリカでうまれた子供のパスポートのことで、ずいぶんイヤな思いをしてる。天安門事件のとき、現地にいた友人は各国の留学生が次々に帰国の手配などしてもらえていたのに、日本大使館はいつまでたっても対応してくれなかったと言っていた。
田中眞紀子さんのおかげで(?)、明るみに出たムネオ問題。アフリカで現地にいる日本人から聞いたODA の問題点。うーん、そうか起こるべくして起こってるのね〜、って感じ。あんまり馬鹿馬鹿しくて笑っちゃう箇所もたくさん。内幕モノって、それだけでのぞき見してるような楽しさがあるケドね。でも、こういうことってもっともっと明るみに出してほしいナ。書いてくれてありがとう。
いままであまり関心がなかったけど、美智子妃のファンになりそう。(02.8.29)
英国ではダイアナ妃の元執事ポール・バレル氏が書いた回顧録「王家の義務」の売れ行きが好調なんだって。暴露本だよね。「暴露は……イヤだけど」、買う方もあるらしい。ミテも「暴露」というとマイナスのイメージがあった。でも、上に書いているようにのぞき見って……嫌いじゃない。
正直に告白すると、この手の本は大好きだ! もう「暴露は大好きです」と認めてしまおう。そして思った。暴露にマイナスのイメージを植え付けたことで得をするのは、誰だ?
権力者。ボス。隠していることで、なんらかの利益を得る人。組織ぐるみの犯罪……。内部告発がなかったら、原発管理の杜撰さもわからなかったし。狂牛病でお金を儲けたことも秘密だった。暴露する……というより、いろいろなことに透明性を付与していけば、世の中は変わる。
てなわけで、大変楽しく読みました。
大学生のころだったか、友人と話していて、大変疑問に感じたことがありました。「なんで自民党は(と思った)、アメリカの言いなりなんだろう? なんか弱みを握られているのか?」。疑問はいまもくすぶっていて、でもよくはわからない。海上自衛隊が、米海軍の子分だってことはNHKの番組で知ったけど。
すると、この本に一片のヒントが! 日米安保について、外務省職員が読むべき解説書が存在するのだそうです。曰く「米国は日本と共通の価値観を有する信頼できる唯一の国である。そのような国に対して(日本有事の際に)助けてくれないかもしれないなどと疑念を抱くこと自体、誤りであり米国に対して失礼である」。
日本とアメリカが、おんなじ価値観をもっている?? そんなアホな……。しかも盲従こそ美徳とは。これはかなり重症な親教信者である、と思ったことでした。こんな理念の外交ってあり得るのだろうか? これからは、もっと暴露本が出てくるだろう。楽しみ♪
衆院選で民主党が躍進した背景には、この本の貢献もあった……かもね。(2003.11.16)
超有名なマンガをいまごろになって読みました。みんなどんどん死んでいくし、絵は怖いし……。
いきなり未来の地球に投げ出された小学校。未来の地球は砂漠で、ほとんど生き物の気配がない。子どもたちだけで生きていく……!! みんな恐怖に駆られ、脅迫したり、裏切ったり、暴力を振るったり。泣いて、怒り、絶望し、ケンカだってする。楽しい場面なんて、これっぽっちもない。
でも、最後は希望なの。それには上のような暗黒の闇を通らなければならなかった。じたばたと四苦八苦、試行錯誤、みっともなくマチガイをしでかし、でも、だからこそ受け入れることができた……。絶望の極みまで行き、だからこそ希望を見いだした。
隠していた気持ちを口に出し、いま現在を受け入れ、いまを生きることで希望が輝きだした。う〜む、すごいなぁ!
キューブラー・ロス博士が言ってる。死を受け入れるためには、7つの段階を通らなくてはならない、と。死に限らず、受け入れがたいものを受け入れるための道のり。それを教えてくれてるような気がする。(2004.1.1)
体調が悪く、仕事も辞めざるを得ないのに診断がつかない。体中痛みがあり、しびれ、動けないのに、医師はなにもできない。それどころか「心身症でしょう」「気のもちよう」とか言われてしまう。(「なら、心身症の治療をしろよ!」と思うけど……)。
もっとも柳澤さんは心身症ではなかったので、さらに手の打ちようがない。どの医者も引き受けてくれない。痛みにも痺れにも、なにも治療法がない。ご本人も辛いだろうし、それを目の当たりにしてるご家族も大変なことだった。
人間はだれかを助けたいと思う。これはどんな人にもある思い。だけど、「なにもできない」「自分は無力だ」と思った瞬間、手を引いてしまいがちなのかもしれない。う〜む、少なくともミテにはそんなトコ、ある。手を出して、なにも変わらないとき。手の出しようがないとき……。空しさや自分の無価値感を感じてしまうから……? うーむ、医者を責められない(~_~メ)。
治療法もなく苦しむ状態が30年も続き、ひとりのお医者さんと巡り会う。そしてその方が処方した抗鬱剤が症状を改善する。それを知ったある研究者がご自分の研究している症例と似ていると連絡をくれる。30年もわからなかったことに光明がさしてくる。こんなことがあるんだ……。アメリカにはすでに患者会もあるとわかる。でも日本人の患者さんはほっておかれてるのね。
でも医者というのは忙しく、勉強したくても睡眠3時間なんて人もいるらしい。星の数ほどある病気を網羅するなんて、できるはずはないよ。
この本では恨み辛みをお書きにならず、科学者らしく事実の羅列という感じ。装丁のようにさわやかな緑の風か、ぷるるんと透明な緑のゼリーのよう。こころの内は別の本で吐露されているので、それも読んでみるつもり。(2004.1.8)
上の本でお書きになったことを、また違う心境で。「医師にこんな扱いを受けて、こう思った」「こう言われて、こう感じた」。うーん、なんて理不尽で失礼なことが起きるんだろう……。治しようがないとき、わからないとき、医療はどうあるべきか。いろいろなドクハラも語られるようになってきたし、医療ミスも明るみに出るようになってきた。医療そのものが大きく変わっていく変革期を迎えているようにも思える。柳澤さんの人生にもまた、別の意味がありつつ。
やはりここでも、カギは「心のありよう」……なんだ。自分を尊重できれば、他を尊重することができる。自分の寂しさや怒りに気がついていくこと。そうでないと、寂しさをほかのことで埋めたり、怒りをまき散らしたりして、それが人へ人へと、どんどん拡がっていってしまう……。
ここで描かれている失礼な医師のように自分の不安や恐れを発信する人になるか。それとも愛をあふれさせる人になるか。選択するのは、「自分」。自分や誰かを批判することなく、フリをすることなく、愛を選択するにはどーすればいい? また突きつけられた感じ。
それにしても……と思う。柳澤さんは、なぜこれほどまでに苦しまなくてはならないのだろう? ……どうしてこういうときは真っ先に「なぜ?」と思ってしまうんだろう?
目的や行き先がハッキリしないと、不安だから……? 逆に言えば、意味や仕組みがハッキリすれば、不安が解消することもあるってことね。
でも「意味」は最後の最後ってときに、本人だけが悟るものなのだろう。わたしは読んで喚起された自分の感情や考えに集中する……それしかないよなぁ。(2004.1.17)
佐藤愛子さんの「私の遺言」つながりで、ここまで来ました。ふふふ、おもしろかった! 「ふむふむ、なぁるほど!」ってとこもあるし、「えええ〜、そんなこと言われてもぉ(-o-;」ってとこもあるし。読んで自分で考えてみる。格好の材料です。
共感するところもたくさん。たとえば
人間はうまくいかないことがあると、自分を反省せずに「何か」のせいにするのが大好きです。一部の霊能者や占い師は、その「何か」をもっぱら因縁や字画であるとし、「私にはそこを変えてあなたを幸せにしてあげることができます」と断言します。しかし本人が何一つ変わらずして、人頼みで幸せになることなどありえるでしょうか。(p.241)
これは私が毎日生きるうえで、あるいはセラピーをしていくうえで、とても大切なことだと思いました。クライアントさんであれ、自分であれ、大切なことはそれぞれの「内なる力」を見つけること。「内なる力」があると信じる……いや、わかっていること。自分の中をわけいって進んでいく。幸せってそれに尽きるのかもしれませんね。
たびたび引きこもる自分をちょっと危惧したりもしています。するとこんな一文が……。
身も蓋もない言い方かもしれませんが、世の中というところは、何も考えていない、能天気で鈍感な人のほうが、のうのうと楽しく生きていけるのです。ものごとに敏感な人ほど、何かにつけて深く哲学的に思い悩んでしまう。そんな繊細なたましいを持った人が人生のちょっとした壁にぶつかると、人生の意味を見失ったり、社会の矛盾にやりきれなくなったりして、どこまでも無気力になってしまうのです。(中略)
……気持ちが切り替わり、新しい自分に生まれ変われるものです。
切り替えのカギとなるのは「人は人。自分は自分」という割り切りです。人と違っていようと、社会の枠組みから外れていようと、自分が納得できる人生ならば幸せなんだという、一種の明るい開き直りです。(p.232)
今回のおちこみは「自分はやっぱり変。自分はダメ」が大きな要因でした。「それでも……いいじゃん?」と思えるようになったとき、「そうだよ! その通り」って駄目押しのようにこの文章と出会ったのです。ううう、どうもありがとう! とっても嬉しかった!
人間は、愛によってのみ変われるのです。(p.192)
わかっているようで、忘れがちなこの言葉。あらためて肝に銘じます。(2004.1.17)
腰痛に苦しんでいる人って多いんだって。そして名医も星の数ほどいる……と夏樹さん。で、数多くの名医に診てもらったのに(たくさんの人が「この人なら」「あの人なら」と紹介してくれた)、彼女のすごい腰痛は去らない。
はじめは「腰を支える筋肉が弱っているから、鍛えればいい」と思って運動をする。でもよくならないので、医者も心因性と疑い始める。でも面白いことに、これほどあれこれ試す人が、真の原因であった「心因説」を頑として受け入れない。抵抗に抵抗を重ねる。「治ると困る事情」がどっかにあったのかな。
心療内科の先生に「言いくるめられて」、入院し快方に向かう。いままでの医師に対してはいい患者をしていたみたいなのに、この医師にはだだをこね、怒りをぶつけ、だまされたと言い、「退院する!!」と宣言する。
一番抵抗をおぼえることが、一番のカギってわけ?? これは考えるに値する。
この医師は、夏樹さんをよくみて、「原因はこれこれです」と説明する。すごいなぁ、わかるんだ。ミテとはちょっといきかたが違うんだな。
ご自分が主人公なので、読んでいてわからないことがいろいろある。後半、医師のメモが出てきて、夏樹さんが早口である、とか、早書きであるとかわかる。テキパキしている、とかね。それがわかってはじめて、「ああ、それで、あれがああだったんか!」と腑に落ちたり。いろんな意味で面白かった。(2004.3.12)
帯には「ばら・カモ夫妻、最後のコラボレーションか!?」とあるけど、サイバラのまんがはほんのちょっと。かもちゃんの文章を初めてマジに読んだ。
そうかー、ふたりはこんな風にケンカして、鴨ちゃんはこんな風に酒をあおって、そんで離婚しちゃったんだぁ……。って、書けないこともいっぱいあるだろうし、本人にもわかんないこともいっぱいあるだろうし。
お酒ねぇ、体調悪くったって飲んじゃうんだなぁ……。わたしも毎日のように二日酔いで記憶をなくしてる時期があったっけ。あれからさらに踏み込んだ感じなのかなぁ。わかんないけど、なにかがすごく怖くて、すごく腹を立てていて、でもなんだかわかんなくて、ますます苛立って……なのかしらん。
血をいっぱい吐いて、かつぎ込まれた病院で、デリカシーのない扱いを受けてさっさと退院。サイバラがどっかに書いていた「逃走」のことかなー。「こういう判断力はハンパじゃない」ってやつ? でも鴨ちゃんには彼の思いや事情があったのに、彼女にも病院にもおかあさんにも伝えられなかったのかなぁ……。
言いたいことが言えなくて、苦しい。でもわかったんだ。言いたかったのは、たいしたことじゃなく、だいそれたことじゃなく、ごくちっぽけなことだったりした。言えないうちは、癒えない……ってこともあるよねぇ。(2004.11.4)
佐藤家に流れる「毒の血」について……。愛子さんの父・佐藤洽六(こうろく)氏から始めて、その息子たち、孫たちのことを書いた本。洽六さんは怒鳴るどころじゃなく、一生懸命だけど憤怒はものすごく殴る蹴る、浮気はする、愛人には子がいる、なにかあると人を呼びつけ叱責、あるいは無理難題をいいつける、息子はなんども勘当する、家庭内は暗く、妻はグチばかり、そのうち若い愛人と結婚、子どもたちも捨てる、新しい妻によかれと思ってすることは本人には迷惑なことばかり……。すさまじい!
上のカモちゃんやバラッチをもっともっと大物(?)にしたような感じ? 傾向は似てるように思うが、スケールが違う。
ウソをついてカネをかすめ取り、やっぱ浮気を繰り返す息子たち。サトウハチロー以外は仕事もあんまり続かず、孫二人はほとんど野垂れ死に。
諦めて言いたいことを飲み込む妻たち。娘の一人は感情が冷えかたまって、冷たい夫婦関係の中でことんと死ぬ。愛子さんは憤怒を引き継ぎ、離婚したり借金を背負ったり。働いても働いても稼ぎをもっていかれる息子の妻もいる。そんな夫が死んだから、普通の暮らしのしあわせがしみじみわかる、ありがたいわーーーなんてね。
はぁ〜、人生ってなんだろ!
毒の血とはよく言ったもんだ。読みながら「共依存が」「三角形ドラマが……」と思うけど、そんなもの跳ね返してしまう勢い。だれがどうしたって、「治る」とか「修正できる」ってもんじゃない。
っていうか、それでいいのかも。このまんまで。
だれがなにをしたって、彼らは変わらない。洽六さんは一生懸命「正しい」ことをしてる。彼にとって、「正しい」ことを。息子を怒鳴れば、殴りつければ、勘当すれば、説教すればよくなると思ってるけど、なにも変わらない。彼が変わらないように……。
叱責や説教って、効果ないんだなぁ……佐藤家に限らず。非難は悪い人間関係の餌/動力源だものね。道理で……。
「誰だって、自分の基準にてらせば、悪いことなんかしていないんだよ。ヒトラーもそうだ」という神さまの言葉がすごくよくわかった。どうしてだろう、と苦しみながら、でもそうなっちゃうんだもん。
「人を愛する経験をする」「こころに平安を築く」と思い決めて人生を生きたのなら、これは大失敗。だいたいこの本に「感謝」とか「ありがたい」なんて言葉はほとんどでてこないもの。
でも「寂しさをとことん排除する」「自分を省みることは極力避ける」という目標を持っていたのなら、大正解! 成就だ。ひとつの人生のすばらしい経験。なかなかできる経験じゃない。
わたしがこういう人生を選ぶかと言えば、否、だ。
だけど、あったっていいじゃないか。そばにいたら絶対嫌う。関わらないようにする。
でも、アリなんだな。
これを認めたら、「いい人を演じる」癖もすこしは楽に抜けていきそう。これを認めたら、たいていの人生は容認できるかも!?(2005.1.21)
上の「血脈」は12年をかけて書いたものだそうだ。うーむ、長い。年月。歳月。
書きながら、そのひと本人に書かされていたと感じるときもあったそうだ。その人になりきることを通して、相手を理解していく。それが愛することなんだ、ときづく。憎んでいたおにいさんを理解し、許し、愛して、それを通じて「毒の血」を回向した、鎮魂したといっていいのかな……。
わたしが考えていること……自分を知り、受け入れ、認め、許し、好きになり、愛する。ねぇ、おんなじことなんじゃないかしらん??
「よくこんな一族の恥を暴露した」と怒る人もいるそうだ。でもねー、さらけださなきゃ昇華しないんだよね。セラピーだっておんなじことだ。闇から解き放ったときに、闇は消える。
波瀾万丈の人生を「可哀そうねぇ」と言われることもあり、そんな時、愛子さんはムカッとするんだそうだ。関西弁を母国語(?)にしているからの感覚かも、とおっしゃっているが、私も我が意を得たり、って思った。
蔑まれてるような、見下されてるような感覚になっちゃうんだもん。それって「理解する」「共感する」んじゃなくて、上に立って「あたしはまったくカンケーないけどね」って感じ? そりゃ、ひとには関係ないんだけど。
かといって、自分もよく誰かを「可哀そう」なんて思うのだ。どうしたらいいのかねぇ。すると……
「破産? えらいこっちゃねぇ、あんた……」
の方がしみじみと心に染みるのである。(p.139)なるほど! こりゃ、ええわ。これに相当する自分の言葉を見つければいいんだな。「大変だねぇ」「難儀だねぇ(古すぎ?)」「そりゃ、辛いねぇ」とか?
そしてこの大河ドラマを書き上げた愛子さんはこんなことをおっしゃる。
自分を守ろうとするから……傷つくまいとするから……損するまいと思うから……いろんな欲を持つから人生は辛いのだ。流れに委せ、自分の自然に添ってあるがままに生きればらくなのだ──私はそう思うようになっていた。(p.142)
棹さすことも、抗うこともなく、自然な自分、ありのままの自分でいる。笑いたきゃ笑う。泣きたきゃ泣く。怒りたきゃ怒る。元気なときは元気なままに。不元気なときは不元気なままに。不機嫌なときは不機嫌なままに。
ハチローはハチロー、あれでいい。ちゃかはちゃか、あれでいい。きゅうはきゅう、あれでいい。……ミテはミテ、これでいい。……なんだか結局、そういうことだったりして。
とっても簡明な単純なことなんだよ。だけど行き着くのはムズカシイんだけどね。いいねぇ、そんなもんなんだねぇ。(2005.2.18)
コロラド州より、もちょっと北にサウス・ダコタ州がある。4人の大統領の顔を山に刻んだマウント・ラシュモアがある州。あそこは先住民の聖地。すばらしい山なのに、あんな顔をつくっちゃって……ブッシュの顔じゃないだけマシか??
そのそばに先住民(インディアンは「インド人」という意味だから本来変なんだよね。「アメリカ・インディアン」はアメリカ系インド人!?)「スー族」が住んでいる。でもほんとうは「ラコタ」というのだって。
ラコタの人々を紹介した本。ちょっとまえ、それと知らずにラコタの人と白人の交流を描いた本「老女の聖なる贈り物 Winona's Web」(プリシラ・コーガン著、めるくまーる、1999年)を読んでいたのでちょっとビックリ。数ある先住民から両方ラコタ?
二冊を読んでちょっとわかった? いや、わかんないけど、なんだろう……人と人は繋がっていて、人は自然と繋がっていて、みな繋がっていること。
それはおそらく「教え」というより「実際、そうなってるから」で、世界のどんな民族にもそういう考えは伝えられてきたのだろう。ただ、消されたり、歪められたりは当然あって、いまに至る。「そうなっている」のだけど、日常生活ではわかりずらく、忘れがち? もちろん日本にだってそれはあり、「もったいない」運動に象徴されるようにごく最近まで色濃く残っていたハズ……。でも消えるときは急速に消えてしまいそう。
彼らの社会のあり方にいくつか感銘を受けたんだけど、一番はこれ。
ラコタの人たちは、立場によって人間に枠をはめる発想が希薄だ。教師であるからこうでなければとか、親だからこうあるべきだといった類のロール・モデルを、人に押しつけるような場面に遭遇したことがない。メディスン・マンに関しても同様だ。自身がメディスン・マンであったレイム・ディアは、彼の語りを本にした『ヴィジョンを求める者』の中でいみじくも言っている。
「メディスン・マンは、聖人であってはいけない。普通の人間が人生で味わう浮き沈みを全て体験し、虫けらのように身を低くすることもでき、鷲のように高く舞い上がれなければならない。あばら家に住み、悪態をつき、卑猥な冗談にも興じる。およそ白人の聖者のイメージとはかけ離れているが、そんなことは、彼がメディスン・マンであることと何の関係もない」(p.50)。
「教師たる者」「記者たる者」「セラピストたる者」「○○であるべき」とがんじがらめに生きてきた私にとってなんという解放感。欠点も弱点も唾棄すべき点もあって、でも「いつもわたし」それが魅力てゆーか、いいんだ……。
いままでわたしが憎んできた人の多くは「○×たる者、△◆すべき……」から外れていた、単にそれだけのことだったのではないだろうか……。憎むほどのことじゃなかったのかも……「ふん、バカめ」くらいですむようなこと?
「べき」の威力と言うべきか??(2005.7.11)
「アメリカ先住民の精神世界」を読んで、ラコタ(スー)族のお話だったから、びっくりして読み返してみた。一気に読んじゃった。
「アメリカ先住民……」は日本人研究者の書いたもの。これはアイルランド系アメリカ人である白人女性が書いたもの。臨床心理学博士である彼女は、スー族のメディシンに詳しいチェロキー・インディアンと知り合い結婚。ダンナさんを通じて先住民の哲学やヒーリングを学び、セラピーにとりいれているそうだ。ふたつとも、ヨソモノの女性が自らの文化をもちつつ、新しい文化を学んで紹介してる。
それでいいというか、そうでなくっちゃと感動する。さまざまな衣装があるけど、本質はひとつ……なのだろうから。
こちらは小説になっていて、白人女性セラピストのメギーがラコタ族の老女をクライアントに迎えるところから始まる。彼女を治そう、救おうとするメギー。だけど、逆に老女ウィノナに人生で大切なことを学ぶ。それもメギーが考えても見なかったような世界を……。
ウィノナは言う。白人は神さまにお願いばかりするが、その答えを聞こうと耳を傾けることをしない、と。「神との対話」の神さまも「わたしはいつも語りかけているのに、あなた方は聴こうとしない」と言ってる。耳を澄ませ、心を傾ける。こんな単純で大切なことも知らなかったんだなぁ……と思う。
考えたり、感心したりした箇所はいろいろあるんだけど、このことが一番心に響いた。
この本は三部作の第一作(神との対話みたいね)で、英語ではもう第三作まで出てる。日本語訳はまだ出てない。読みたいんだけどなー。(2005.7.22)
アラスカを拠点に、動物の写真を撮っている人、ぐらいにしか知らなかった。なぜこの本を手にとったのかわからない。ぱらぱらとめくると、ピトログリフの写真が。え、岩絵? アメリカ合衆国の砂漠で見たものと、ちょっと違うけどどことなくおんなじ。
それで読もうときめた。
寒くて広くて、人の少ないところ。人がかつて自然とともに暮らしていたとこ。いま、その暮らしをしようとしている人たちがいるところ。そして、もっと人のいないところ。
モーターのうなりも、電子音もないような……。
そういうところでは、やっぱり「たましい」ってものを感じるんだ。きっとごく自然に、そうなっていくのだろう。なんというのか、地球と、大地と、生き物すべてとのつながりをじかに感じるのだろう。
星野さんはそういう使者に思える。
カムチャツカで亡くなったとは知らなかった。彼の死に関しては、知り合いが「訴える」「書いてやる」と憤っていた。なにがどうなっているのか、気にかかっていた。いまも、よくは知らないが。
亡くなったのは、わたしたちが熊を見に行ったあの湖だろうか。いや、湖はいくらでもあったし、どうだろう。わたしたちがいった二年後にあそこで亡くなった。その日は友だちの誕生日だ。死んだ友だちの……。
勝手にご縁を感じる。
でもあのころ読んでもわかんなかっただろう。アメリカ南西部をいったあとでなければ。「人が人を癒すことはできない」というくだりにギクゥ〜ッっとする今でなければ。
ベビースターラーメン「チキン味」ピーナツ入りを食べてる場合じゃないのかも知れない。壮大な風をなんだか感じるのだ……(2006.2.22)。
監訳者・松沢さんの記事を新聞で読んだ。松沢さんの本を読んだ。そしてジェーン・グドールさんのことを知り、この本を読んだ。上の本の著者・星野さんのことが一言あって、涙が出た。関係ないけど、同時期に読んだ鍼灸の本にも星野さんのことが書いてあって、涙が出た。
グドールさんは小さいころから動物が好きだった。ある日はミミズに魅せられ、ベッドにたくさんのミミズを持ち込んだ。一緒に眠りたかったんだって。おかあさんがミミズに気づく。そして言う。
「ミミズはお庭でないと生きていられないのよ」。
ジェーンはびっくりして、ミミズをかき集め、庭に戻した。そんなおかあさんもいるんだ〜。いいな〜。ステキ……。
アフリカにわたり、ほとんど未知の動物だったチンパンジーの観察をする。森の中で暮らす。彼女のおかげで、チンパンジーのことがたくさんわかってきた。でも、森は伐採されて狭くなり、チンパンジーも絶滅の危機にある。いまは環境保護や平和を訴えて講演旅行の日々だそうだ。
人間はとても残虐なことをする。チンパンジーもする。でも、とジェーンは問う。
「残虐なのは本能だから仕方ない、でいいのか?」と。
すばらしい行為もできる。どちらを選択するか。霊的な進化を、人類は遂げようとしているのではないか? それも今。
日本語のタイトルにはないけど、これは真にスピリチュアルな本なの。現実や自己から逃避するための「スピリチュアル」ではなく、日々の暮らしをどう生きるかを問いかける。
読み終わって、ジェーン・グドール研究所のウェブを見た。アニマルプラネットにリンクがあって、手許の番組表を調べると、ちょうどゴンべの森のチンパンジーの番組が始まるところだった。ジェーンも写っていた。
星野さんのことといい、導かれてるんだね。わたしにできることを、していこう。(2006.3.25)
ロッキーはロッキー山脈のこと。
イエローストーン、グランド・ティートン、ロッキーマウンテン、グレイシャー国立公園などでとらえた動物のカラー写真と吉野さんの思い。
いいなぁ〜、ロッキーに行きたくなっちゃった。まだ見てないムース、マウンテン・ゴートに会いたいなぁ。
アメリカの国立公園のことが詳しくわかってよかった。いろいろ行ったけど、まだまだ行きたいもの。
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生命、すべては繋がっている。一体である。……あちこちで聞くこの言葉をいろいろな角度で考えている。なんだろう、それって……。
気のつながり。因果関係。物理的なつながり。食物連鎖。生態系。物質循環……。まだ朧げ。だけどひとつわかるのは、生き物は環境と切り離せない。それは人間もおんなじ。
庭でダンゴ虫を殺してしまえば、生態系が狂う。アリを退治すれば生態系が狂う。いや、そんなこと言っても大都会で、コンクリートジャングルで人間生きてるじゃないか、という反論もあるだろう。そーね、だけど健康で平安で仲良く喜びに充ちて暮らしてるか?
生物が一種類絶滅する度に、人間の生命力も弱くなる……ような気がする。うつや自殺、ニート、引きこもり、殺人事件、放火、子どもや家族、同僚、同級生へのいじめ、リスカ、中毒、……多いよね。
でもまだ取り戻せる。吉野さんのようなひとがいるから。
いろんな事件や自然破壊はあっても、悲惨な体験からひとは生命とはなにか考えるから。
生命の蹂躙、人間や動植物の拉致監禁もきっと減ってくるから……。信じてる。(2006.8.26)